日本クリスチャン・アシュラム連盟60周年を記念して

理事長 横山義孝

 1945年8月、日本は第2次世界大戦に敗北し精神的に物質的に荒廃の極にありました。特に軍国政府の柱となっていた天皇を神とする国粋主義イデオロギーが崩壊し、日本人は心の拠り所がなくなり、思想的精神的な無政府状態となり、まさに国家の滅亡といってよい状態でした。
 しかしこれは主イエス・キリストの父なる神が日本に与えて下さった最良の伝道のチャンスとなったのです。連合軍最高司令官マッカーサーの指令によりキリスト教会各派は、種々の弾圧、宗教統制から完全に解放されて、積極的に日本の同胞に対する伝道活動が展開されることになったのです。いち早く始まったのが、NCC(日本キリスト教協議会)が主体となった超教派伝道でした。
 この働きに対して最初に協力を申し出てきたのが、1907年からインド伝道に生涯を献げていた、スタンレー・ジョーンズ師でした。同師は非常に霊的な器であるとともに、インドに宣教の拠点をおきつつ、国際間の平和の使者としてもそのキリストの愛と和解の理念を実践したのでした。第2次大戦勃発前夜、当時のルーズベルト・アメリカ大統領に対して進言し、日本の天皇宛てに戦火を交えることのないよう打電を要請したのでした。不幸にして大戦になってしまいましたが、これを憂えていた同師は1949年来日以来1971年まで、ほぼ2年ごとに来日して精神的に疲弊した日本の同胞を慰め励ましました。そして、キリストの福音こそが日本人の希望であるとし、全国伝道を実施して一定の成果をおさめたのです。この時彼は、日本は500年に一度の伝道のチャンスを迎えていると言って意気盛んなものがありました。
 スタンレー・ジョーンズがアシュラムを始めたのには、彼自身の深い霊的経験がありました。1907年、23歳で彼(当時米国メソジスト教団宣教師)はインドの民衆に福音を伝えたいとのビジョンを与えられ、勇躍インドに乗り込んだのでした。若さに物を言わせて日夜伝道に専念したのでしたが、インドの社会状況は誠に複雑でした。激しい貧富の格差、極端なカースト制の階層社会、町々に際限なく広がるスラム街、それにインド教、バラモン教、ヒンズー教、イスラム教等の土着宗教による異なった価値観と生活スタイルなどなど。宣教8年にして、彼は疲労困ぱいし、精神的にしばしば失神状態に陥り、1年間、アメリカで休養の時をもって、インドに帰ってきてもまだ、破壊された体の状況は治らなかったのでした。
 ある日、ラクナウの教会で祈りをしていた時、主の御声を聞きました。「わたしがあなたを召したこの仕事に、あなたは用意ができているのか」と。彼は答えて「否、私はおしまいです。私は精も根も尽き果てようとしています」。すると主は言われました。「もしお前が、心を巡らして、その問題をわたしに返し、それについて思い煩わぬならば、わたしがそれを処理するであろう」と。彼は直ちに「主よ、私はここですぐ約束をとりつけます」とすべてを主に委ねた時、「ある大いなる平和が私の心に入り込み、全身に行きわたった。私はしめたと感じた・・・・生命--満ちみてる生命が私をとらえたのだ。・・・・それ以来不審に思われるほどいささかの疲労の痕跡もなく、私は自分が命と平安と休息と--すなわちキリストご自身によって所有されたことを感じた」と。
 この全き「キリストへの明け渡しと服従」の経験が彼のアシュラムの根底にあることを知ることができるのです。
  4回目の来日(1955年)の時、日本伝道に困難があるのを見たスタンレーは日本のクリスチャンには祈りが必要であると考え、彼の提唱で始められたのが現在の日本クリスチャン・アシュラムです。アシュラムとはインド語で「ア」は「~から離れる」、「シュラム」は「労働」を意味します。インドは歴史的に精神文化が盛んで、工業アシュラム、農業アシュラムなどと呼ばれて、種々の文化領域に従事する人々によって用いられ、1週間、あるいは1カ月静かな森にこもって学習と精神修養に当てていたようです。スタンレー・ジョーンズは精神的指導者マハトマ・ガンジーと親交があり、ガンジーのアシュラムにしばしば参加していたようです。
 それでスタンレーはアシュラムをキリスト教信仰の充実深化のために用いるように導かれ、サトタル(7つの湖)という集会場(現在アシュラム道場になっている)にインド人牧師、英国人宣教師、スタンレーの3人が祈りをもって始めたのが最初のクリスチャン・アシュラムでした。
 日本ではスタンレーの2年ごとの来日時にNCCが主催して行われましたが、アシュラムの祈りの意義がキリスト教会に有効であると考えられるに至り日本各地の地域、団体に独自のアシュラムのグループが組織されスタンレー亡き後も、その遺志が受け継がれて今日に至っています。